続日本100名城 滝山城跡へ②

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「滝山城」は、大永元年(西暦1521年)に武蔵守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった北条氏照(小田原北条氏四代氏政の弟)が拡張、改修したとされてきました。しかし近年の研究により、北条氏照は、由井領を支配していた大石綱周の養子になり、「浄福寺城(由井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後、永禄10年(1567年)までに滝山城を築城して移転したと考えられてきています。

三の丸に行くその前に遺構説明板で現在地の確認

次は三の丸へ

指導標に従って進むも、残念2箇所とも通行止めでした。

上の場所は、ARポイントでしたのでアプリの映像で楽しみました

行けないこともなさそうですが・・ここは諦めます

次は「千畳敷」に進みます。

指導標に従って進んで行くと、名前に負けない大きな広場のような所に出ました

千畳敷

ここは滝山城跡の中で最も広い平場で「千畳敷」と呼ばれています。一辺が約60mの正方形に近い形をしており、東側には「二の丸」を守る兵馬が控えたと考えられる「角馬出し」があります。「二の丸」は敵兵を入れさせない固い守りとなっていましたが、「千畳敷」は城下の民が年貢を納めたり、陳情に来る役場的な施設があったと考えられています。

ここには、ベンチとテーブルも設置されておりハイキングにもちょうどいい感じがします。ただしこの時期は無視が多いので、スプレータイプのムヒの虫よけスプレーは必要ですよ。

この千畳敷の左側には、「角馬出」がありこのように侵入者たちを苦しめたことでしょうね。

さらに千畳敷の北側に進んで行くと眼下には「弁天池跡」がありました。あくまでですよ。

弁天池跡

宴を楽しむような池と推定されている眼下には中の島と池跡が見える。実は北条氏照の弟、氏邦の鉢形城(埼玉県寄居町)にも中の島があり、その池を「弁天池」と呼んでいた。今は、池をせき止める土手は分断されているが、当時はつながっていて湧き水や雨水をためていた。小舟を浮かべて宴を楽しむような池だったと思われる。

弁天池跡をあとにして、元来た道を引き返す。

続いては、二の丸になります。がここも通行止めのようでした。右側に重機も見えたのでここも諦めるしかないようです。

ここで、この城跡の通行止め情報をまとめてくれた地図がありました。

「三の丸」にも行けなかった・・・「二の丸」にも行けそうもない・・・こんな時は、「滝山城城攻めマップ」と「ARアプリ」が役に立ちました。一旦「千畳敷」方面に戻り矢印の道から二の丸を目指した。当時は、もちろんスマホはないので、建物を目標にして道なき道を進んだのだろうか?側面からの攻撃に注意しながら・・・

いよいよ集中防御の二の丸へ続く