5月27日の月曜日、敷島神社にある国指定「重要有形民俗文化財」である田子山富士塚に登るために行って来たのですが今回も登ることは出来なかった。前回は、2022年8月。この日は以下の理由で登ることは出来ず。
そして、2024年5月。満を持しての訪問は、以下の理由でまたしても登ることは出来なかった。確かに小雨がわずかな時間降るには降っていたが、その後は晴れていたのでとても残念でした。
この田子山富士塚は、月の内何日間しか入山・登拝貴重な富士塚になります。
武州志木宿田子山富士保存会の公式ホームページによると、猛暑が予想される「8月1日~23日」は、入山中止が決まっており、尚且つ上記期間以外であっても「猛暑日」になった時は、入山が中止になるようです。ちなみに、6月から7月までの入山日程は以下の通りです。
令和6年6月
2 | 5 | 6 | 9 | 12 | 15 | 18 | 21 | 24 | 27 | 30 |
日 | 水 | 木 | 日 | 水 | 土 | 火 | 金 | 月 | 火 | 日 |
大安 | 友引 | 大安 | 友引 | 大安 | 友引 | 大安 | 友引 | 大安 | 友引 | 大安・お祓い |
令和6年7月
3 | 6 | 8 | 11 | 14 | 17 | 23 | 26 | 29 |
水 | 土 | 月 | 木 | 日 | 水 | 火 | 金 | 月 |
友引 | 山開き | 友引 | 大安 | 友引 | 大安 | 大安 | 友引 | 大安 |
入山をご希望の方は、必ずホームページ等で各自ご確認ください。
せっかく入山可能日に、訪問できたのですが残念ながら登拝出来ず、田子山富士塚のある敷島神社内を見て回らせて頂いた。ここが、敷島神社の入り口になります。左側は住宅地になり右側は細田学園
まっすぐに伸びた道を歩いて行くと、敷島神社と書かれた鳥居。鳥居の先に見える階段状の道が田子山富士塚の入口になります
まずは、右側に歩いて行くと、二匹のカッパちゃんがお出迎えしてくれました。何でここにカッパと思ったので調べて見ると以下の通り
志木市は、カッパ伝説で知られています。その昔、宝幢寺のお地蔵さんから怒られたカッパが改心して、お礼にコイやフナをとどけるようになったという伝説が元になって、志木市はカッパの街になりました。3本の川に囲まれ、水との関わりが深い志木市には、昔からカッパにまつわる伝説が伝えられています。例えば、柳瀬川に住んでいた河童が馬を川の中に引きずりこもうとして失敗し、村人たちに捕まってしまったという話もあります。志木市のマスコットキャラクター「カパル」も、このカッパ伝説にちなんでいます
カッパ像の、左隣には手水舎。
手水舎の正面には、丸吉講の講印がありました。この丸吉講(まるきちこう)は、江戸時代後期から明治時代に、現在の埼玉県新座市周辺で隆盛した富士講の一講社。この講は浅海吉右衛門を講祖としています。浅海吉右衛門は、天保2年(1831年)に富士登山三十三度の大願を成就しようと甲州都留郡下暮地村(現在の山梨県南都留郡西桂町)に宿泊していた際、名主と神主から三峠という山を開いてほしいと懇願されました。吉右衛門はこの願いを引き受け、富士山に参拝し大願を成就した後、下暮地村名主宅に一泊しました。その後、吉右衛門の霊力が近隣に知れ渡り、病気や災難を逃れるための祈祷に廻ったことで、丸吉講社が生まれました。丸吉講はわずか2年足らずで入間郡、多摩郡、豊島郡、新座郡の4郡に加入戸数4,000軒の信者を集め、明治の神仏分離の荒波を乗り越えて都内にも富士塚を築いたことで知られています。その後、丸吉講は富士一山講社に加入し、富士信仰を継承していきました。丸吉講の富士塚は、現在もいくつかの地域で残っており、その歴史的な背景を感じることができます。例えば、下練馬の富士塚や中里の富士塚(大泉富士)などがあります3。丸吉講の伝説は、地域の歴史と信仰の一端を物語っています。
手水舎の隣には、敷島子安神社があります。この敷島子安神社は、敷島神社のご神体である木花開耶姫大神(浅間大神)と同じくして、縁結び・子宝・子授けの神社として祭られている玉石を撫ぜることで利益があると言われています。
そして、敷島子安神社の横には、水神宮。
水神宮は、生命の維持で一番必要な水の神様を祭られています。
水神宮の横には、納札所
敷島神社にはまだまだたくさんの神社があるので改めてアップします