遺構説明板は、全体図・部分図・解説文・想像図で構成されていた。
ここは丁度、小宮曲輪のあたりのようだった。
曲輪(くるわ)
城の中の区画されている広場。
この説明版の裏手を登ったところが、小宮曲輪のあった場所のようなので行ってみたが、もちろん、上の説明のように広場だけだった。
小宮曲輪とおぼしき場所から次の目的地である、山の神曲輪に向かう
道の左側には、深く堀くぼんだ道が、並行している。私の勝手な想像だが、攻め手の大群が下の道から攻めてきたら上から、攻撃を加えたのであろうか?
踏み跡の付いた道を進む
ここから先は行き止まりになっており、道は鋭角的に右に曲がる。
右に大きくがった後は、緩やかに下りそして登りにかわる。時々分岐が出てくるが、どこにつながっているのか分からないので、今日は地図の通りに歩いた
建物がないからなのかもしれないが、周りの様子が全く同じに見えて道の脇の杭がなければどこをどう歩いていいのかわからない。攻撃する側も、入念な下調べの上でこしらえた地図が必要だったに違いない。
いったん下ってからの登りが現れた。
前方が開けてきたのでもうすぐ、山の神曲輪違いない
大きな腰掛テーブルが2脚設置されていた
山の神曲輪
民衆の避難場所と推定される。「山の神」とは全国各地に残る民間信仰で、農耕の神である。春は里に下り、秋は収穫を見守ると山に戻って行く。この山の神を祀る山の神曲輪は、城下や周辺の村々の民衆たちを、敵の乱取り(放火や略奪) から守るために設けた避難場所であったと考えられる。永禄12年(1569年)、城周辺の村々は武田軍(武田信玄)によって焼き払われた。このとき、一般民衆は領主の城(滝山城)へ避難したと思われる。
ここからは田園風景が眺めることが出来るが、下からさほど高低差がなく感じられたのでここからも、攻撃軍は攻めてきたのだろうか?ほとんど、当時の物が残っていないので自分の想像で考えながら歩く楽しみのある場所でもある。
山の神曲輪を背に左側にも道があるので、その道を使う
来た道よりも道幅の狭い道を少し歩けば、行きに使った道と合流する
前方の道を左手に進むと
二の丸・千畳敷・三の丸方面に進む
コの字型土橋(強力な側面攻撃)
掘りを掘る際に、一部の土をそのままに残して通路として使う場所を土橋と言う。と維当時はもっとせまく、敵方の進行に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃が出来るように工夫していた。敵の直進を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。
まずは、三の丸方面に行ってみた。この坂を上ると
やはり、広場のような場所に出た
下を覗くと、滝山城入口から歩いてきた、天野坂が見えた
まだ、歩き始めて僅かであるが、往時の滝山城の敷地の広さに驚かされる
次は、千畳敷
*今回のブログを作成するにあたり、滝山城 城攻めマップから説明文等は引用させて頂いております。
今日はこの辺で