所在地
東京都清瀬市中里3丁目991-1
最寄り駅
西武池袋線「清瀬駅」
概 要
富士山は古くから信仰対象の山とされてきていますが、特に江戸時代中期には富士登拝の風潮が盛んとなりました。しかし、実際の富士登山は経済的負担が大きく、危険が伴うことから、富士登山のできない人々のために富士塚が各地で築かれました。中里の富士塚は、文政8年(1825年)に丸嘉講武州田無組中里講社の講徒によって、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれました。現在の富士塚は、周囲より約9mの高さです。富士塚の北側に設けられた鳥居をくぐると、登山道が九十九折りに続き、途中一合目から九合目までの小さな石柱があります。山頂には石製小祠と大日如来を刻んだ石碑があり、登山口と登山道の途中にも様々な富士信仰に関係する碑が建てられています。
また、登山道に向かって右側山麓に、現在は閉鎖されていますが横穴が掘られています。この横穴は、富士山麓の風穴と呼ばれる洞窟をくぐることによって安産の利益があるという胎内巡りを模して掘られた横穴です。今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続され、関係する武州田無組丸嘉講中里講社関係資料も含めて東京都指定有形民俗文化財に指定されています。
引用元:清瀬市役所
古来より日本人の信仰を集めてきた霊峰・富士。18世紀頃、富士信仰・富士登山が盛んになり、江戸を中心に富士講が多数できました。しかし、富士登山は危険でお金もかかるため、老若男女誰でも富士登山ができるようにと、富士山を模した富士塚を各地に築き、親しみを込めて「お富士さん」と呼んでいました。中里の富士塚は、清瀬市郷土博物館から北へ500 mほど歩いた住宅街に突如現れます。高さ約9メートル、直径15メートルほど赤土を盛り上げて円錐状に築いた富士塚です。富士塚の北側から石鳥居をくぐると、正面に登山道が九十九折りに設けられ、「一合目」から「九合目」まで小さな石柱(合目石ごうめいし )が置かれています。山頂には、文政8年(1825)に造られた石の小さな祠と、大日如来を刻んだ根府川石の碑があり、登山道の途中にも富士信仰に関する様々な碑が建てられています。築いたのは丸嘉講まるかこう武州田無組中里講社で、頂上の祠と講社が持つ古文書の記載から、文政8年(1825)に築かれたとされています。今日でも富士登山や9月1日の「火の花祭り」などが行われています。
引用元:東京都教育委員会 東京都文化財めぐり ウェブサイト
住宅街を歩いて行くと突然、こんもりとした丘のようなものが見えてくる
入り口には、まだ新しい鳥居がある。一礼して鳥居をくぐる
中里富士山で催される行事について書かれてあった。
左側には、参拝者が身を浄めるために手水を使う手水舎
この中里富士塚は、登ることが出来るのでありがたく登る
まずは、号目石を探しながら山頂を目指したが、残念ながら1合目・四合目・五合目・七合目の合目石は探すことは出来なかった。
山頂までの道はしっかりと管理が行き届いていて歩きやすい
胸突き八丁の坂を呼吸を整えて登って行く
最後の難所の急坂を登り
山頂に到着出来る。
一番左側にあるのは小祠
右側の石柱の形はまさに富士山だった
山頂から下を見渡してみた。
山頂までにあった碑
明治八年○四○日吉日と刻まれている
大天狗 小御嶽神社 小天狗と刻まれた碑。
文字の上には富士山を象ったシンボルマーク
小御嶽神社は富士山五合目にある神社であり、小御嶽は富士山より古い山で、小御嶽と古富士が土台となっていまの富士山の姿になったといわれている。
小祠
これは千手観音さまかな、手は12本?
この碑には
笠マークが刻まれていた。