小宮曲輪から本丸までの道は、写真の通り、かろうじて踏み跡がかすかにわかるくらいで道は雑草に覆われていた。ここは、雑草をかき分けかき分け進むしかなかった。
しばらく歩いて行くと、北条氏照が八王子城築城にあたり、城の守護神とした「八王子権現」が祀られている八王子神社を見下ろす場所に出た。
小宮曲輪方向に進まずに、石段を登って行くとここに出る。ここは、八王子神社方面に下らずに上に向かう道を歩いていく。途中分岐が何箇所ありますが行きつく先は同じなので、お好きな方向に進めはよろしいかと
登り切った先は、八王子城本丸址に到着
本丸跡は、城の中心で、最も重要な曲輪。平地があまり広くないので天守閣などの大きな建物はなかったと考えられています。横地監物吉信(よことけんもつよしのぶ)が守護していたと言われています。
曲輪とは・・・土塁などで囲んで作られた平らな場所をいう。
横地監物吉信・・・戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、北条氏照の家臣でした。彼は滝山城や八王子城の守備を担当し、特に八王子城の戦いで知られています。1590年の小田原征伐の際、八王子城が豊臣秀吉の軍勢に攻められたとき、横地監物は城を脱出し、檜原村に逃れる途中で切腹したと伝えられています。
本丸跡を後にして、先ほどの八王子神社へと向かう石段まで戻ってきました
石段を下って行くと
神社の横には、横地監物が祀られている社
遂に自決せりと書かれてある
松木曲輪と書かれてある、標識があったので行って見ました。
ここには見晴らしの石柱と
ベンチが数基あり、晴れていれば富士山を見ることが出来ると書かれてあります
松木曲輪・・・中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)らがこの辺りを守備していたと言われています。八王子城攻めの際に奮闘しましたが、多勢に無勢で防ぎきることが出来ませんでした。
中山勘解由家範(なかやま かげゆ いえのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。彼は北条氏照の家臣であり、馬術や槍の名手として知られていました。
家範は、八王子城の戦いで豊臣軍に対して奮戦し、最終的には自刃しました。その忠義と勇敢さは後に徳川家康にも評価され、彼の子供たちは徳川家に仕えることとなりました
来た道を戻る途中に見つけた、ヤマユリ
ヤマユリの花言葉は「荘厳」「威厳」「純潔」などで、その豪華な姿から「ユリの王様」とも呼ばれています。また、鱗茎(ユリ根)は食用や薬用としても利用されてきました。
この橋を渡れば、駐車場に着きます。
八王子城跡編はこれでおしまいです。間が空いて申し訳ありませんでした。