JR総武線の千駄ヶ谷駅で下車して、徒歩約5分で到着します。
八幡神社(鳩森八幡神社)は、御祭神に応神天皇・神功皇后をお祀りし、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として村民の崇敬を受けた神社です。 境内には都の有形民俗文化財指定の築山富士があり、樹木は区の保存林に指定されています。 初宮詣(お宮参り)・七五三・合格祈願・成人式・結婚式・安産祈願等、各種ご祈祷承っています。
引用元:鳩森八幡神社公式ホームページ
鳥居をくぐるとご神木の大銀杏
まずは、登山口へ急ぐ
早出早歩きが山の原則
登山開始の前に里宮に続く橋を渡り、里宮で安全に登山が出来ることをお願いする
いよいよ、登山開始
写真を撮っていると、健脚のご夫婦に追い抜かれてしまう
左側に亀石
ゴツゴツした道をバランスを崩さないように慎重に進む
小御嶽石尊大権現を右にみてさらに進む
小御嶽は富士山より先に出現した山であり、
地勢的に有名な地に鎮座し、山岳信仰の霊地として
朱雀天皇承平七年(西暦九三七年)七月十七日の創建に
して後花園天皇康正二年(一四六五年)社殿の御造営を
なす。 富士山小御嶽石尊大権現、富士山中宮とか、
富士天狗宮とも称し富士登山者の守護神である。
故に往古よりお中道巡り、富士山頂へ至る行程の拠点とし、富士行者が参籠して大行となす。
引用元:山梨県神社庁公式ホームページ
下を見ると、ここまで高度を稼いできたとは、自分自身を褒めてあげたくなる
ここに、富士山信仰の詳細があります。
先に北条氏康によって天文年間(一五三二~一五五四)高尾山に富士浅間(せんげん)大菩薩(だいぼさつ)が勧請された事を記した。現在、奥之院不動堂(明治中期、旧薬師堂脇の護摩堂を移築)の裏に奉安される富士浅間社がこれである。今の社殿は大正十五年に再建されたものであるが、この小社こそかつての高尾山奥之院そのものであったと伝えられる。
山内の伝承によれば、山頂を過ぎて紅葉台、一丁平に至る手前南側に「富士見台」と呼ばれる小さな頂があり、かつてここに一つの御堂が構えられ、拝殿の奥の扉が開かれると御神体の富士山が一幅の絵のように拝されたという。今日でも奥之院から山頂に向かう道筋を「富士道」と言い習わしているのである。
往時は、この道筋を白装束の富士道者の一行がチリン、チリンと腰の鈴を鳴らしながら賑やかに行き交うのが夏の風物詩であったという。
さて、「北条記」の記述に戻れば、富士浅間社の高尾山勧請に伴って富士吉田の「禰宜(ねぎ)(御師)達が悉く武州八王子に移り…」とある。俊源大徳の中興以来醍醐山三寶院の当山派(とうざんは)真言修験道の法流を汲む高尾山に、修験開祖神変大菩薩と縁の深い富士浅間大菩薩が祀られる事となったのである。ここに登場の禰宜等は、高尾山修験先達集団と渾然となって、高尾山参詣と富士詣でとを広めていった事と推察される。
江戸時代になって関東の修験道勢力は、幕府の強大な力を背景に、日光男体山を主な行場とする天台本山派(ほんざんは)の二荒山(ふたらさん)修験に収斂(しゅうれん)されて行く中で、高尾山修験道が関東地方には珍しく孤高を保ち、当山派真言修験の旗幟を護って来た要因として、隣国相模の国御岳大山、雨降山大山寺不動寺の修験行者との往来と共に、この富士山修験道の勢力を無視する事が出来ない。
江戸時代中期以後に「江戸八百講」と謳われる繁栄を示す富士講は、永禄三年(一五六〇)庚申の御縁年、修験行者長谷川武邦が富士山麓に修行の場を求め来り、人穴に籠もり千日の立行を成就して「角(かく)行(ぎょう)東覚(とうかく)」を名乗り、「おふせぎ」という守札を書き、「御身抜(おみぬき)」という創作文字を以て書いた掛け軸を信徒に与え、病気災難を払うという呪術を行とし、多くの教義を創り伝えて、正保三年(一六四六)百六才の長寿を全うするまで、人穴に住み富士登山を行い各地を行脚した。角行を開祖とする富士信仰は江戸に根を下ろし、約六十年後、享保年間(一七一六)二人の偉大な行者を生み出す。一方は「大名(村上)光晴」、もう一方は「乞食(食(じき)行(ぎょう))身(み)禄(ろく)」と呼ばれる対照的な二人であった。
村上光晴は諸大名、豪商などの裕福な檀(だん)越(のつ)を抱え、北口浅間神社の社殿が大破した際、一人の力で資金を勧化(かんげ)し、今日の諸社殿を新築する大工事を成就している。
食行身禄は一介の油の行商人である。江戸町人のただ中にあって庶民感情に通じ、若くして修行に入った身禄は、世の中を冷静に観察する眼力を養っていた。幕府の経済政策の失策から享保十八年(一七三三)一月二十六日に起こった米騒動を深く憂いて、悲しみと怒りをもって庶民救済、世直しを祈念して、享保十八年六月十三日、富士山吉田口七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)の岩穴に入って断食行を始め、七月十三日に入滅する。定(じょう)に入って一ヵ月間、食行身禄は吉田御師田辺十郎右衛門の世話を受けつつ、「お決定(けつじょう)の巻」・「御添書之巻(おそえがきのまき)」・「三十一日乃御伝」の三巻の書物を口述している。庶民の立場からの透徹した世界観を打ち立てたこれらの書物は、武家政治を厳しく批判し、四民平等の思想を謳い、中庸を得た内容で、江戸の町民を引き付けて、爆発的な富士講の隆盛発展の糧となった。
富士山道中の道筋の取り方は、江戸を中心に、埼玉、千葉、神奈川から八王子に出て高尾山に参拝、小仏峠を越えて甲斐路を辿り、大月、都留、吉田に入り北口浅間神社に詣で、登山、頂上のお鉢を巡り、須走口、御殿場口へ下り、足柄峠を越えて、最乗寺へ道了尊詣で、更に簑毛から雨降山に登り石尊権現に詣で、下って大山寺不動尊に詣で、厚木、上鶴間を経て府中、あるいは世田谷に通じる大山街道を、または、伊勢原から藤沢に道を取り東海道を登り江戸に帰るのが主だった道筋であったようだ。
この道中に於て、我が高尾山は富士山の「前立ち」、大山が「後立ち」であるとする信仰が在ったと伝えられる。高尾山浅間社から富士道を通って小仏峠に至ると、「身禄茶屋」(現小仏茶屋)と呼ばれる茶屋があり、食行身禄行者の木像と身禄が用いた笠が宝物として安置されていた。像は体長十五センチ。宝殿造りの厨子に収められ、側面には「天保辛卯(二)年(一八三一)六月二十二日 千住天王前 先達家根屋松三郎」と記される。小仏村の谷合家に移されていたが、昭和八年身禄二百年忌に、練馬区江古田の祓講(はらいこう)が譲り受け、同地小竹町の浅間神社に納められ、茶屋の幟(のぼり)と共に現存する。引用元:高尾山薬王院公式ホームページ
鳥帽子岩までやってきました。
艱難辛苦を乗り越えて、まもなく山頂です。
山頂には、金明水
釈迦の割れ石
銀明水
そして、山頂にボク石で覆われている奥宮
ボク石???
名前の通り、日本一の山、富士山の石です。
『大沢崩れ』を代表に、富士山の沢で起きた土石流で流された石が富士黒石(大沢石)
です。荒削りな玉石になっております。 溶岩で流れ出たものが富士黒ぼく石です。
富士黒ぼく石は昔から池の滝組や塀に張り付けて使用されております。
近年ハワイ風の石組にもよく使われております。
※採掘はしていないので所有している業者様からの仕入です。
無くなり次第終了する商品です。引用元:造園用石材卸販売 美濃石山元 西山造園石材
お賽銭の盗難とは・・・情けない
下山に入ります。
道迷いのないように、指導標もしっかりとあります
山は、下山時が危険と聞いています。慎重に・・
顔が半分削り取られています。
神仏分離令の時期に行われた所業でしょうか
まもなく登山口につきます
これは富士講記念碑でしょうか
富士が藤になっている理由が知りたい~
無事に到着
順番が逆になってしまいましたが、御社殿でお参りをさせて頂きました。
御社殿 御祭神 応神天皇・神功皇后
弘化2年(1845)に上棟した欅造りの荘厳な社殿では、不幸にして昭和20年、戦災により消失してしまった。戦後昭和23年より数度の復興事業を重ね、昭和56年末に完成したが、平成2年の御大典を記念して、昔日の姿に復元すべく建設工事を行い、平成5年6月竣工。51.8坪の総欅造り。また戦前の幣殿、拝殿の天井に絵が描かれていたことにならい、108点の草花、暮らしの中の道具をテーマにした天井画が描かれている。引用元:鳩森八幡神社公式ホームページ
このころは、ここまで大変になるとは思っていませんでした。
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