いざ!!八王子城、豊臣軍が本丸目がけて駆け上がる①

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天正18年(1590年)6月23日、八王子城は、関白・豊臣秀吉による小田原攻めの最後の決戦地となりました。この戦いでは、豊臣方の前田利家、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、信之、信繁(幸村)ら総勢5万の兵力が、北条方の僅か3千の兵で苦戦させられましたが戦闘としてはわずか1日で落城してしまったようです。北条氏康の四男の北条氏邦によって籠城した鉢形城は、一ヶ月あまり耐えきったのにあまりにも違いがありますね。これはあくまで私の見解ですが、八王子城は、戦い上手と言われた北条氏照が兄の氏政と小田原籠城だったことが原因だったのではないかと思います。小田原評定なんて言われていますが、なぜ氏照は、自分が築いた八王子城を家臣に任せて小田原行ってしまったのか分かりません。これに関しては色々と事情はあるのでしょうが、まさか籠城して豊臣軍が引き上げると思ったのでしょうか?この辺の話は、歴史に詳しい方がたくさんの考えをブログ等で書かれているので、この辺で終わりにします。そうそう、上の写真は八王子城址管理棟にいらっしゃったたぶんガイドさんだと思います。なんとなくかっちょいい、兜被っていたので写真を撮られていただきました。ありがとうございます。管理棟を後にして、小さな橋を渡り、石段を登って行きます

うっそうとした階段状の道を進みます。忘れないうちに書きますが、この時期は、蚊の餌食になるので虫よけスプレー必須です。ないととんでもないことになりますよ

石段を一旦登り切ると、

道は二手に分かれます左手は新道で、右手は旧道のようです。気持ち的には旧道と思ったのですが、案内板が金子曲輪・本丸と書かれてあったので新道から進みます

前日に降った雨で道が少し滑ります。昔の戦で命がけで登って行った方たちにとても失礼なスニーカーもどきで歩きます

この石垣は当時の物なのでしょうか?

鳥居が出てきました。

ここからは、石段の連続が始まります。当時は、どのようだったのか分かりませんが石段がなければかなりの急な道だと思います。この道が当時からの道だとしたら、攻め上る前田・上杉軍・対する北条側の兵士たちがたくさん亡くなっている訳でそのような道を踏みしめていると思うと申し訳ないですね。

偶然かも知れませんが、この石の形三角形に見えませんか?三角と言えば、

そうなんです、北条家の家紋「三つ鱗」です。偶然ですよね

にしても急な階段道・・・あなどれない八王子城跡。当時は石段はあったのだろうか?

最近のなまりきった脚に喝を入れるのにはいいかもですね

登り切るとベンチありました。腰かけるほどではないのでここはスルー。それに天気予報ではそろそろ雨が降る予想でしたので

このあたりが、金子曲輪(金子丸)

金子三郎座衛門家重が守っていたと言われています。尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされているようです。攻めの侵入経路によっても異なりますが、私が登って来たコースから登り攻めてきた豊臣軍と最初に激突する場所だったんでしょうね。攻め手もまだ元気な状態なので守りても相当苦戦したことでしょうね。

金子丸から3分ほどで七合目の石柱。なんとなく歴史を感じさせる石柱ですが当時はあったのでしょうかね

木の根の張り出した道を歩いて行きます

柵門台(柵門跡)

山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で、柵門跡と呼ばれています、名前の由来など詳しいことは不明です。これまた、名前から考えるに高さの高い柵がありここからその門を通らないと本丸方面に進めなかったのかもしれません・・・

ここが八合目