北高尾山稜縦走コース 小仏関所跡から八王子城跡入口案内板まで 2022/02/26

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車は、蛇瀧口有料駐車場に駐車した。

今まで一度もこんなに車が止まっていたことがなく少々戸惑っていると、すでに下山してきたハイカーさんも同じように驚いていた。この日は到着する時間も遅かったので比較にはならないが・・・

来た道を戻り、小仏バス停方面ではなく蛇瀧口バス停方向に歩く。この道沿いには「高尾梅郷梅まつり」の会場にもなっており、梅まつりの時期は大勢の観光客で賑わう場所なのだが、今年の「高尾梅郷梅まつり」は

◆高尾梅郷梅まつり実行委員会によると◆
新型コロナウイルス感染症まん延防止等重点措置の延長、また現在の感染拡大の状況を鑑み、高尾梅郷梅まつりは、中止となったようだ。

このような状態であっても、梅の花は少しずつ咲き始め、春の到来近しを感じることが出来た。

そうこうしている内に、「甲州街道駒木野宿」跡に到着して、すぐ横にある

小仏関所跡に着く

◆小仏関跡◆(八王子市役所公式HPより引用)
江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。 天正年間(天正元年(1573年)から文禄元年(1592年))に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後の天正18年(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。 江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。 関所の警備は一時三人だったこともありますが、概ね四人体制で専従の関守が置かれていました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、地域の文化を担う文化人でもありました。 全国の関所は、明治2年(1869年)の太政官布告により廃止されます。小仏関も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。 明治21年(1888年)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3年に国の史跡に指定されました。 現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、ハイキングの人たちで賑わいます。

 

この「小仏関所跡」の石柱を通り過ぎ、民家の脇を左に曲がる

下には、中央本線の線路が走っている「陸橋」を渡り

道なりに歩いて行くと

正面に鳥居があり、その先には本殿に向かう急な階段があるがここは道になりに左手方向へ

後ろから来たトレランさん達に軽く追い抜かれてしまったが、すれ違いざまにこんにちは~と声を掛けて頂き何となく、春の陽気のようにうれしくなった。トレランさんたちは、この先「陣馬山」まで突き進んで行くんでしょうね。

道は舗装道から土道に変わる

ここで初めて「富士見台」の標識が出て来る。

地図を時折見ながら歩いているので間違いはないのだが、指導標が出て来ると気分的に安心するものだ

道なりに歩いて行くと今度は、「中央高速道路」下を通過

高速道路下の道を進んで行くと

道は二手に分かれる

登山道としては、右側の道幅の狭い道を登って行くのだが、心情的には左側の広い道に進みたくなるところだ。

登山道の入り口には、割れているが、しっかりと、「八王子城跡ハイキングコース」案内板がある。

今日はこの辺で

 

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