将門伝説の山・・・勝峰山➀ 2022/09/12

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勝峰山・・・なんと読みますか?「かつみねやま」「かつみねさん」違いますね。「かっぽやま」と言います。標高は、わずかに454m。でもこのお山、「平将門伝説」がある山なんですよ。もちろん、歴史は勝者が作るものだとモノの本に出ていたので真相は分かりませんが。この奥多摩にも将門伝説があるのはロマンを感じませんかねの前回ブログにも書いた、「将門神社」や「将門山不動尊」もあるのでこの日は、久しぶりに登って来た。

鳩の巣周辺散策・・将門神社から将門山不動尊➀

鳩の巣周辺散策・・将門神社から将門山不動尊②

鳩の巣周辺散策・・将門神社から将門山不動尊③

記事を書く前に、山頂にあった説明書きには

21世紀の桜の森・勝峰山・歴史と伝説の森

「将門の伝説」
平将門の伝説は、関東地方の各地にたくさん伝わっている。将門は今から1000年以上も前の人物で、一族の仲違いから戦になり、おじの国香(くにか)を殺してしまう。これがきっかけとなって、将門はついに関東全域を制圧したのである。将門は相馬小次郎といい、自らを新皇と称した。三十八歳のとき、下総国(茨城県)猿島郡北山で、藤原秀郷(俗称 俵藤太)・平貞盛の連合軍によって、敗死させられているが、その活動範囲が広かったので、大久野から奥多摩の山岳地帯にも数多くの伝説が残されている。これは将門の一族郎党が多摩の奥地へ逃げこんだり、秀郷の追及が厳しかったことも影響しているであろう。さて、将門の軍が相模原方面から、藤原秀郷の軍に追われて北上し、大久野の勝峰山に一夜城を築いて籠ったのは、暮れも押しつまった12月の半ばであった。追手の大将、秀郷の軍は総勢3000人。その一部が幸神に陣をとり、はるか勝峰山の将門軍約400人に対峙した(このため秀郷軍が陣取ったあたりは、後に「藤太口」といわれている。天慶3年、屠蘇の香りも消えやらぬ正月7日、秀郷軍は武将菅口六郎を先発隊に、向山より攻めのぼった。すると、将門軍はいっきに迎えてうって出た。ことに将門はならぶものなき大力の持ち主であったので、1丈(3メートル)もの金棒を振りまわして奮闘した。戦いは激烈をきわめ、勝敗もつかぬまま夕方となり、両軍は小休止をはじめた。いっぽう、戦いのようすを藤太橋(藤原秀郷の陣地であったあたり)からながめていた秀郷は、ややいら立ちはじめた。すると、そのときのことである。馬に跨った大将らしい者が、茜空にくっくりと浮かびあがったではないか。「将門にまちがいなし」とにらんだ秀郷は、ここぞとばかり、そばに生えていた欅の木に弦をを張り強弓を作って、従者数十人に引きしぼらせた。そして、将門めがけてヒョーと放つと、矢はぐんぐんと延び、将門の鎧の袖をかすめて、向こう側の谷へと消えていった(秀郷の矢が超えた沢を「矢越沢」と呼ぶようになった)さすが、将門も衆寡敵せずとさとり、せまりくる宵闇を幸いに、風穴洞を抜けて山を降り、将門坂を越えて、青梅方面へ逃れていった。そして、金剛寺に立ち寄り、梅の一枝を地にさして、「わが事成るなら、、この梅栄えよ。成らぬなら枯れよ」祈願したので、のちに青梅の名前が生まれたという。
日の出町史 文化財編 第7章「伝説・むかしばなし」より

 

車は、武蔵五日市駅の有料駐車場に停めた。

着替えを済ませて早速出発。

駐車場のちょうどいい場所に切れ込みあり

青梅線が走る陸橋の下を通過

陸橋を過ぎると、道は緩やかな登りとなる

天気予報ではこれほど晴れるとは・・・(涙)

黄色い建物は、松華飯店。ここを左

道なりに歩いて行くと、右側には駐車場。ここは使えると思ったが・・・

残念でした

さらに道なりに歩いて行くと

山道と林道との分岐。もちろん、山道をチョイス

今日はこの辺で

 

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