ためぐそ山から勝峰山⑤2023/03/12

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コース概要

武蔵五日市駅有料駐車場から、地蔵山への取り付きまで

地蔵山の取り付きから「ためぐそ山」

ためぐそ山から深沢山

今回は最終、深沢山から勝峰山のコースになる。何となく寂しい雰囲気のある深沢山を後にしてこの日の最終の目標の勝峰山へと向かった。道は良く踏まれている。「里山の自然と歴史に触れ会う会」と「日の出山の会」のボランティア活動のおかげで指導標が要所要所にあるので迷うリスクが少ないのが多くのハイカーが歩いている理由だと思う。

道は、時折緩やかなアップダウンが出て来る。

このように、分岐には指導標。「千年の契り杉」とはなにか意味深な名前。なにか、恋愛に御利益でもあるのだろうか?

麻生山・日の出山との分岐。ちなみに、勝峰山・麻生山・日の出山の三山を総称して日の出三山と呼ぶらしい。いずれは、お手合わせしないといけません

この緩やかな、坂を道なりに進んで行くと

前方に何か人工物が見えてきた

「幸せの鐘」そう言えば、青梅市の即清寺の裏山にある「山内新四国八十八箇所巡りの八十八番目の霊場の先にある展望台にも「しあわせの鐘」もあった。

この山の所有者の方に帰り偶然お会いして、お聞きした話によるとこの鐘は半鐘を利用して作成したとの事。

勝峰山に建つ幸せの鐘
即清寺の裏山にある展望台に建つしあわせの鐘

勝峰山山頂標識。手作り感が良い感じ。

山頂の平将門伝説案内板によると

将門の伝説

平将門の伝説は、関東地方の各地にたくさん伝わっている。将門は今から1000年以上も前の人物で、一族の仲違いから戦いになり、おじの国香を殺してしまう。これがきっかけとなって、将門はついに関東全域を制圧したのである。将門は相馬小次郎といい、自分を新皇と称した。三八才のとき、下総国(茨城県)猿島郡北山で、藤原秀郷(俗称、俵藤太)・平貞盛の連合軍によって、敗死させられているが、その活動範囲が広かったので、大久野から奥多摩の山岳地帯にも数多くの伝説が残されている。これは将門の一族郎党が多摩の奥地へ逃げこんだり、秀郷の追求がきびしかったことも影響しているのであろう。さて、将門の軍が相模原方面から、藤原秀郷の軍に追われて北上し、大久野の勝峰山に一夜城を築いて籠ったのは、暮れも押しつまった十二月の半ばであった。追手の大将、秀郷の軍は総勢3000人。その一部が幸神に陣を取り、はるか勝峰山の将門軍約400人に対峙した(このため、秀郷軍が陣取ったあたりは、後に「藤太口」といわれている)。天慶(てんぎょう)三年、屠蘇の香も消えやらぬ正月七日、秀郷軍は武将菅口六郎を先発隊に、向山より攻めのぼった。すると、将門軍はいっきに迎えてうって出た。ことに将門はならぶものなき大力の持主であったので、一丈(三メートル)もの金棒を振りまわして奮闘した。戦いは激烈をきわめ、勝敗もつかぬまま夕方となり、両軍は小休止をはじめた。いっぽう、戦いのようすを藤太橋(藤原秀郷の陣地のあったあたり)からながめていた秀郷は、ややいら立ちはじめた。すると、そのときのことである。馬に跨った大将らしい者の姿が、茜空にくっきりと浮かびあがったではないか。「将門にまちがいなし」とにらんだ秀郷は、ここぞとばかり、そばに生えていて欅の木に弦を張り強弓を作って、従者十人に引きしぼらせた。そして、将門めがけてヒョーと放つと、矢はぐんぐんと延び、将門の鎧の袖をかすめて、向こう側の谷への消えていった(秀郷の矢が越えた沢を「矢越沢」と呼ぶようになった)。さすが、将門も衆寡敵せずとさとり、せまりくる宵闇を幸いに、風穴洞を抜けて山を降り、将門坂を越えて、青梅方面へ逃れていった。そして、金剛寺に立ち寄り、梅の一枝を地にさして、「わが事成るなら、この梅栄えよ。成らぬ枯れよ」と祈願したので、のちに青梅の名が生まれたという。

日の出町史 文化財編 第七章「伝説・むかしばなし」より

勝峰山には、平将門の鎧塚や鈴石・血の池などがある。

勝峰山を後にして、

北側の第二展望台にむかった

途中火薬庫の遺構があり、この山の石灰岩に着目してセメント工場が建設された名残が感じられた

東側の第一展望台に向かう途中、鮮やかな色の桜を見ることが出来た

あとは林道を歩いて

ショートカット道を使って

駐車場に戻った

先ほどの案内板に書かれた、「将門坂」の近くにはやはり将門ゆかりのお寺もあるので興味があれが覗いておくれ。場所は、JR青梅線の鳩ノ巣駅から歩けるところになる